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日本人文書紀。


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 是歲,興屯倉みやけ于來目邑くめのむら。【屯倉,此云みやけ彌夜氣。】 七、殉死禁令──埴輪  二十八年,冬十月丙寅朔庚午五,天皇母弟倭彥命やまとひこのみこと薨。
 十一月丙申朔丁酉二,葬倭彥命于身狹桃花坂むさのつきさか。  於是集近習者,悉生而埋立於陵域みさざきのさかひ。數日不死,晝夜泣吟ひるよるなきいさつ。遂死而爛臰之くちくさり,犬、烏聚噉焉はむ。天皇聞此泣吟之聲,心有悲傷。詔群卿曰:「夫以生いけるとき所愛令殉亡者すぎにしひと,是甚傷いたましきわざ矣。其雖古風いにしへののり之,非良よからず何從?自今以後,議之止殉したがひしぬること!」  三十年,春正月己未朔甲子六,天皇詔五十瓊敷命いにしきのみこと、大足彥尊曰:「汝等各言情願之物也。」兄王諮:「欲得弓矢。」弟王諮:「欲得皇位あまつひつぎ。」於是天皇詔之曰:「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命,仍詔大足彥尊曰:「汝必繼朕位くらゐ。」
 三十二年,秋七月甲戌朔己卯六,皇后日葉酢媛命,【一云,日葉酢根命ひばすねのみこと也。】薨。  臨葬はぶり有日焉,天皇詔群卿曰:「從死之道,前知不可。今此行之葬,奈之為何いかがせむ?」於是野見宿禰進曰:「夫君王陵墓,埋立生人いけるひと,是不良也,豈得傳後葉のちのよ乎。願今將議便事たよりなること而奏之。」則遣使者,喚上出雲國之土部はにべ壹百人,自領土部等,取埴はにつち以造作人、馬及種種物形,獻于天皇曰:「自今以後,以是土物はに更易生人,樹於陵墓,為後葉之法則のり。」天皇於是大喜之,詔野見宿禰曰:「汝之便議,寔洽かなへり朕心!」則其土物,始立于日葉酢媛命之墓みはか。仍號是土物謂埴輪はにわ,亦名立物たてもの也。仍下令曰:「自今以後,陵墓必樹是土物,無傷やぶり人焉。」  天皇厚賞野見宿禰之功いさをし,亦賜鍛地かたしところ,即任土部職はじのつかさ。因改本姓もとのかばね謂土部臣はじのおみ。是土部連はじのむらじ等主天皇喪葬みはぶり之緣也。所謂野見宿禰,是土部連等之始祖はじめのおや也。
 三十四年,春三月乙丑朔丙寅二,天皇幸山背やましろ。時左右奏言之:「此國有佳人,曰綺戶邊かにはたとべ。姿形美麗すがたかたちうるはし,山背大國不遲おほくにのふち之女也。」天皇於茲執矛祈之曰:「必遇其佳人,道路見瑞しるしあらはれ。」比至行宮かりみや,大龜かめ出河中。天皇舉矛刺龜,忽化為白石しろいし。謂左右曰:「因此物而推之,必有驗乎。」  仍喚綺戶邊,納于後宮きさきのみや。   生,磐衝別命いはつくわけのみこと。是三尾君みをのきみ之始祖也。
 先是,娶山背苅幡戶邊やましろのかりはたとべ,生三男。   第一曰,祖別命おほちわけのみこと。   第二曰,五十日足彥命いかたらしひこのみこと。
  第三曰,膽武別命いたけるわけのみこと。五十日足彥命,是子石田君いしだのきみ之始祖也。  三十五年,秋九月,遣五十瓊敷命于河內國かふちのくに,作高石池たかしのいけ、茅渟池ちぬのいけ。  冬十月,作倭狹城池さきのいけ及迹見池とみのいけ。
 是歲,令諸國多開池溝うなて。數八百之。以農なりはひ為事。因是百姓富寬とみゆたか,天下太平也。  三十七年,春正月戊寅朔一,立大足彥尊為皇太子ひつぎのみこ。 奈良縣橿原市鳥屋町久保 桝山古墳
倭彥命 身狹桃花鳥坂墓 倭彥命薨,葬身狹桃花鳥坂墓。近習者殉之,數日不死,晝夜泣吟,死而爛殠,為犬烏聚噉。天皇聞之惻隱,願廢生人殉死之儀。 埴輪
野見宿禰領土部,取埴作人,馬及種種物形,是謂埴輪。自後陵墓必樹是土物,無復傷人。 水上池 奈良市西北郊佐紀 狹城盾列池
狹城池,『大和志』:「添下郡狹城盾列池在常福寺村,廣一千二百餘畝。一名西池,又名水上池。」迹見池,『大和志』:「添下郡迹見池,在池內村,廣三百餘畝。」高石池,『持統紀』:「河內國大鳥郡高腳海。」茅渟池,『和泉志』:「珍努池在日根郡野野村西。今曰布池。」『古事記』:「印色入日子命者,作血沼池,又作狹山池,又作日下之高津池。」 奈良縣天理市布留町 祭神:布都御魂大神=韴靈劍;布留御魂大神=天璽十種瑞寶;布都斯魂大神=素戔嗚尊天十握劍
石上神宮 武門棟梁物部氏總氏神  三十九年,冬十月,五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮うとのかはかみのみや,作劍一千口ちふり。因名其劍謂川上部かはかみのとも,亦名曰裸伴あかはだがとも。【裸伴,此云あかはだがとも阿箇播娜我等母。】藏于石上神宮いそのかみのかむみや也。是後,命五十瓊敷命,俾主石上神宮之神寶。
 一云,五十瓊敷皇子いにしきのみと,居于茅渟菟砥河上,而喚鍛かぬち名河上かはかみ,作大刀一千口。是時,楯部たてぬひべ、倭文部しとりべ、神弓削部かむゆげべ、神矢作部かむやはきべ、大穴磯部おほあなしべ、泊橿部はつかしべ、玉作部たますりべ、神刑部かむおさかべ、日置部ひおきべ、大刀佩部たちはきべ,并十箇品部とものみやつこ,賜五十瓊敷皇子。  其一千口大刀者,藏于忍坂邑おさかのむら,然後從忍坂移之,藏于石上神宮。是時神乞之言:「春日臣かすがのおみ族,名市河いちかは令治。」因以命市河令治,是今物部首もののべのおびと之始祖也。  八十七年,春二月丁亥朔辛卯五,五十瓊敷命謂妹大中姬曰:「我老也,不能掌神寶。自今以後,必汝主焉。」大中姬命辭いなび曰:「吾手弱女人たわやめ也,何能登天神庫あめのほくら耶?【神庫,此云ほくら保玖羅。】」五十瓊敷命曰:「神庫雖高,我能為神庫造梯。豈煩わづらひ登庫乎?」故諺ことわざ曰:「神之神庫,隨樹梯はしたて之。」此其緣也。然遂大中姬命,授物部十千根大連而令治。故物部連等,至于今治石上神寶,是其緣えに也。
 昔丹波國桑田村くはたのむら有人,名曰甕襲みかそ。則甕襲家有犬,名曰足往あゆき。是犬咋山獸やまのしし名牟士那むじな而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉やさかにのまがたま。因以獻之,是玉今有石上神宮。 九、天日槍與神寶  八十八年,秋七月己酉朔戊午十,詔群卿曰:「朕聞:『新羅王子天日槍,初來之時,將來寶物たからもの今有但馬。元為國人見貴,則為神寶也。』朕欲見其寶物。」即日遣使者,詔みことのり天日槍之曾孫清彥而令獻。於是清彥被敕みことのり,乃自捧神寶而獻之。羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、日鏡一面、熊神籬一具ひとそなへ。唯有小刀かたな一,名曰出石いづし,則清彥忽以為非獻刀子,仍匿袍中,而自佩之。天皇未知匿小刀之情,欲寵清彥,而召之賜酒於御所みもと。時刀子從袍中出而顯之。
 天皇見之,親問清彥曰:「爾いまし袍中刀子者何刀子也?」爰清彥知不得匿刀子而呈言:「所獻神寶之類也。」則天皇謂清彥曰:「其神寶之豈得離類乎?」乃出而獻焉,皆藏於神府みくら。然後,開寶府みくら而視之,小刀自失。則使問清彥曰:「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎?」清彥答曰:「昨夕きぞ,刀子自然至於臣家,乃明旦失焉。」天皇則惶之かしこまりたまひ,且更勿覓。是後出石刀子自然至于淡路嶋,其嶋人謂神,而為刀子立祠ほくら。是於今所祠まつらるる也。  昔有一人,乘艇而泊とまれり于但馬國。因問曰:「汝何國人也?」對曰:「新羅王子,名曰天日槍。」則留于但馬,娶其國前津耳さきつみみ女麻拖能烏またのを。【前津耳,一云,前津見さきつみ。一云,太耳ふとみみ。】   生,但馬諸助。是清彥之祖父おほち也。
兵庫縣豐岡市出石町宮內 出石神社、天日槍之碑 祭天日槍命、出石八前大神,境內有天日槍之碑。出石八前大神者,即天日槍命所攜八種神寶矣。
奈良縣奈良市尼辻西町 垂仁天皇 菅原伏見陵 奈良市尼辻西町
菓祖神田道間守命御塚  九十年,春二月庚子朔一,天皇命田道間守たぢまもり遣常世國とこよのくに,令求非時香菓ときじくのかくのみ,【香菓,此云かくのみ箇俱能未。】今謂橘たちばな是也。  九十九年,秋七月戊午朔一,天皇崩於纏向宮まきむくのみや。時年百四十歲。
 冬十二月癸卯朔壬子十,葬於菅原伏見陵すがはらのふしみのみさざき。  明年,春三月辛未朔壬午十二,田道間守至自常世國。則齏物也,非時香菓八竿八縵やほこやかげ焉。田道間守於是泣悲歎之曰:「受命天朝みかど,遠往絕域,萬里蹈浪,遙度弱水。是常世國,則神仙秘區かくれたるくに,俗ただひと非所臻。是以往來之間かよふあひだ,自經十年。豈期,獨凌峻瀾,更向本土乎?然賴聖帝之神靈みたまのふゆ,僅得還來。今天皇既崩,不得復命。臣雖生之,亦何益矣!」乃向天皇之陵叫哭おらびなき而自死之。群臣聞皆流淚也。田道間守,是三宅連みやけのむらじ之始祖也。 日本書紀卷第六 終
【久遠の絆】【卷第五】【卷第七】【再臨詔】 日本書紀 卷第七 景行紀/成務紀 【景行天皇】【成務天皇】
大足彥忍代別天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみこと 景行天皇けいかうてんわう 一、即位與立后  大足彥忍代別天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみこと,活目入彥五十狹茅天皇いくめいりびこいさちのすめらみこと第三子也。母皇后曰日葉洲媛命ひばすひめのみこと,丹波道主王たにはのみちぬしのきみ之女也。
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